「こんにちは日本語」の教本創り             2023/09/21

                              塚崎 雄一

言太が、発展途上国を支援する政府機関ジャイカのシニアボランティアとして、中米のジャマイカに赴任していた時のことである。訪問した小学校で出会った黒人の少年は、言太が日本人と知ると、カバンからノートを取り出し熱心に何やら書きだした。しばらくするとノートを差し出し、これは何かと尋ねた。日本マンガでみたらしい。雲か霧のようなもやった鉛筆書きをしばらく眺めたが、言太には皆目分からない。すると少年はさらに夢中になって、もやの絵の上に描き足していく。書き足しては見せに来る度に「分からない」のしぐさを繰り返す。少年の一途な思いに応えたいと言太は待ち構える。やがて霧の中から形らしきものが浮かび上ってきた。ようやく大魔王の漢字を認め驚く。固唾をのんで少年のノートに屈みこむ背中を伺っていたが、線画でなく濃淡画の靄(もや)の中から予期せぬ漢字が出現した。複雑な三文字熟語の太字の「大魔王」の図柄が繰り返し現れるマンガだったのだろう。がこれが強烈に少年の脳裏に焼き付いて再現した。言太はこれを読み取れホッとした。二人の共同作業の奇跡の成果に深く感動した。
日本マンガが国境を超え、世界中の子どもたちに受け入れられ、影響を与え続けている。そして日本マンガ・アニメを通し、日本語が学習されている。
世界にある数えきれない数のことばの中で、自前の文字を持つ言語は少ない。ことばは話しことばとしてはじまり、今もほとんどは話ことばだ。日本のように自前の言語だけで教育できる国は極限られている。内戦と戦争に明け暮れた中国には、近代文明を表す用語がなかったので、同じ漢字の日本語をそっくり借用し、社会、文化、科学関係の日本語をそのまま中国語に転用した。今日の中国語の七割は日本語だったという。
第二次世界大戦後まで、日本の文学は海外にほとんど知られていなかった。日本語を翻訳できる人がいなかった。敵国の使うことばを知る軍事上の必要から、アメリカ軍は有能な自国の若者を募り、日本語を突貫集中教育で、戦争通訳を養成した。戦後この通訳たちから優れた日本専門家が多く育ち、日本文学が英語に翻訳され世界に紹介される。膨大な、世界に知られず眠っていた日本文学は、第二次大戦を契機に発見され、質量ともに英文学にも劣らない豊かさと驚嘆されていく。

マンガ・アニメの力

 言太がその中国人青年を見つけたのはたまたまだった。アジア顔の青年の口から聞こえてくる日本語は、日本人と見まがう発音と論旨で、思わず足を止め
「どこで勉強しましたか」
 と呼びかけさせた。
『先月日本に来るまで、日本語は一切習ったことはありません』
と、以外な答えが返ってきた。益々興味を持ち、青年の日本語獲得に至った秘密を聞いた。
『日本アニメが面白くて毎日アニメばかりを見ていました。半年経ったらいつの間にか話せるようになっていました』というのだ。
 中国をはじめ著作権無視の世界では、海賊版の日本アニメが現地語訳付きでネットで楽しめる。ただ面白くて引き付けられ、この青年のように日本アニメだけで日本語をものにした外国人は少なくない。言太の観察では、日々苦労の多い日本語教育者にとっては実も蓋もない話だが、日本アニメを楽しむのが今のところ日本語習得に一番効果が上がる方法、という結論に至る。全く自分の受けた英語教育には肝心要の「楽しむ」が欠けていた。「子供が日本マンガやアニメばかり見ていて困る」という切実な声は、日本だけでなく、世界中の親たちからここ数十年来聞こえていた。実はこれこそが世界の子どもたちの心をわしづかみにした証拠なのだ。感度の良いアンテナが有ったら声の大きさ、切実さにもっとびっくりしただろう。「勉強が疎かになって困る」という声の裏には「マンガは遊びに過ぎない」という大人の育った時代のマンガの立ち位置からくる本音がうかがえる。ところが当の困った子どもたちは、語彙も文法も習わずに、マンガ・アニメだけで勝手に日本語を学習してしまう。そればかりか、日本語に秘められた深い人間洞察力に引きつけられている。日本人の赤子が日本人の親に育てられている環境に居るように易々と。こんな若者たちがインターネット環境の中で、増え続けている。
 散歩好きな言太は路で小さな子どもに出会うとよく「アンパンマンのマーチ」という日本アニメの主題歌を、あさってを向きながら何気なく口ずさむ。途端に子どもの関心がこちらに向けられ、顔に不思議そうな表情や喜びを浮かべて、聞き入るのを経験した。公園で後ろ姿を追ってついてくる。小さな交流という意図は簡単に達成されたのだ。子どもの感性は、アンパンマンが大好きだ。なぜパンという、食べられてしまうヒーローがこれ程人気なのか、言太には謎だった。とにかく食べ物として自分の体を差し出す発想の異様さ、気高さは突き抜けている。日常のことばだけで書かれた歌詞なのに、深淵な人生哲学、本質を捉える力が宿っている。まず子供の間で人気が出て、それに親たちがつられていく、マンガ・アニメ現象と同じ、子どもの人気が大人に伝染する、子ども主導の現象が日本中で、世界中で巻き起こった。
 日本マンガはそれまでの小説・エッセーの文章表現の可能性を軽々と越え、それまでの常識を打ち破る、力ある新しい価値観を開拓している。長々とした文章が、マンガなら一瞬で伝えられ、読み手の腑に落ちる。しかもしばしばずっと分かり易く。ことばで伝えきれない情景や微妙な心理描写まで、臨場感が絵の助けを借りてどんどんふくらむ。映画や劇は写実にこだわってきたが、人の細やかな感情や情緒の表現で、特異な優れた伝統を持つ、日本伝統の浄瑠璃・能や歌舞伎の特殊な表現が、漢字や象形文・絵文字を生み出す日本特有の文化が、マンガに生かされている。スラムダンクの主役桜木花道の目を点で表す変顔を、新しい文法を、日本のマンガ・アニメ作家たちは描いて世界語にしていく。日本人の読み手が、日本人作家たちの新しい表現手法を巧みに読み取り、文法へと育てることに一役二役買う共著者となっている。どんな言語にでも対応できる軟らかな若い脳には分かる、日本発の新しい表現形態を模索する到達点に、スラムダンク、すずめの戸締り、千と千尋の神隠し…が在るのだろうと、言太には頼もしく誇らしく映る。
マンガ・アニメには、多くの日本人が意識していなくとも日本人を他から際立たせている、信頼、協力、努力を尊ぶ価値観がしみ出ている。日本文化の気高い資質は、日本にいると気づきにくいが、海外をゆっくり歩けば、自ずと見えてくる。有難いことに日本人の祖先たちが、極東の辺境で、植民地にならず、他民族の奴隷にならぬ稀有な環境で、天変地異の多発する地に根を張り、互いに協力することを尊重する、比類なき平和な社会を、営々と育て上げた。日本語を用いるとは、日本文化の価値を生きるということだ。
 地震・津波の被災地で店の前に長い列を作って待つ人々の姿が、ニュースの映像で世界中に流され、被災それ自体に増して、世界中に衝撃を与えた。日本人にとっては当たり前に見える列の最後にならぶという行為だが、こんな非常時にも列を作る社会が在るという発見は、世界に大きなショックを与えた。混乱に乗じて火事場泥棒が略奪をし、値上げし、列を無視するのが当たり前の世界では、日本人の行動がにわかには信じ難い。この感動がどれほど深く世界を、日本を見直す目に変えたか、日本人は本当には理解できない。人はあのようになれるのかという、人間への信頼や希望を見出した、というのは決して大げさな話でない。日本人はただ習慣でやっていることで、別に深く考えてのことではない、と思うかもしれない。しかし現実の世界は別の力学で動いていて、困難の中の何気ないこんなところに本当の正体、民度が現れる。阪神大震災で被災した神戸に住む言太は、全国から支援で集まってきたボランティアの若者の姿に接し、未来に光を見出した。崩壊したがれきの中で命あること、人の親身に触れ感謝に涙した。東日本の地震・津波の災難を乗り越える試みを通し、日本文化がさらに育bつのは日本文化の底力だ。

進化とことば

治安が良く物価が安いと評価が高いマレーシア。そのジャングルを南北に走る鉄道がある。ほぼ満員の鈍行列車に乗りこむと、売り子が次々と食べ物をいっぱい盛った籠を担いで車内を回ってくる。食べ物を口に運びながら、食べ残しやむいた皮、殻、袋のごみを開けっ放しの車窓から外に床の上にと、次々投げ捨てる。何のこだわりもない乗客たちの様子を、言太はあっけに取られて眺めていた。しかし驚愕の光景も時間が経つと慣れてくる。やがて空いた車内でうたた寝する男の服の上を何やらうごめく物の気配がある。確かめると、無数のゴキブリだった。
 中南米カリブ海の世界一美しい島、とコロンブスが讃えた観光立国ジャマイカでは、ごみの大小種類かまわず全てごみ小屋に放り込み、回収のトラックが川辺や山にそのまま捨てていた。自然に帰る量をとっくに超え、土に還らない石油素材の発泡スチロールの白い容器が、微細な無数の砂状になって広がり海、海岸によどみ、砂と混じっている。よく見れば発泡スチロールのゴミがマングローブ林の根本に幾重もの層をなして浮き、枝に絡みついている光景が続く。日本でもゴミで身動きできなくなったゴミ屋敷がニュースになって久しい。すでに大量のゴミが回収不可能なほどに地球全体を覆い汚し続けている。五十年前の日本海久美浜に在ったあの眩しく美しい砂浜は、「あした浜辺をさまよえば」の唱歌に歌われた日本の浜辺は、今はどこにあるだろう。有毒なゴミを食べた魚介類を食べ、人の子孫を創る男性の精子が、激減し続けていると、科学者たちが警鐘を鳴らしている。地球規模の取り返しのつかない環境破壊のただ中にいる。
 言太の書いた「進化史観」に彼の世界観があるので要約しよう。

宇宙進化は永い時をかけて生命を生み、人の脳にことばを宿して進化を上昇させてきた。進化は自分自身が進化しているとの自己認識にまで、ことばを用いて至った。科学の力を借り、進化によって生まれた人が、ついに進化の向きさえ選択する能力を持つ時代を迎えている。ところが人の創った今の世界には、進歩と破滅の逆方向に引き裂く光景が、どこまでも広がっている。殺戮が絶えず、掛け替えのない地球は人とゴミで覆いつくされ、生物の生きる環境は人によって激減している。進化は最も複雑な組成を持つ人の脳に、進化の意図を理解することばを生んだのではなかったのか。未だ人のことばは宇宙の進化の意図を汲み取れていない。

 1964年秋、東京オリンピック開会式を数日後に控えた主会場最寄りの国鉄代々木駅ホームで、下校途中山手線の電車を待っていた高三の言太に外国人が英語で道を尋ねた。学生なら英語が分かると期待したのだろう。しかし一言も返ってこない学生の前から程なく外人は姿を消した。このシーンを思い返す度に言太は味わった屈辱感に赤面した。英語が使い物になっていない現実を突きつけられ激しいショックを受けた。情けなさは忘れ難く、心の奥底に沈潜した。英語の授業は私立の小学校で二年、中学で三年、高校でも三年近く受けてきた。その結果がこの様か。暗記力と努力不足だと自分を責めた。
 トラウマだったはずの英語が、口語英語授業を大学で受け始めると、途端に苦痛の受験科目が、楽しい交流の道具へ変身していった。ちょうどその頃、たまたまテレビに出演しているオーストラリア人のクラーク氏を観た。氏が語る日本語は日本人の知識人と見紛う自然さで素直に心に届いた。また「自分は日本語を学び始めて半年」とハッキリ聞いた。この言葉はにわかには信じ難かった。氏の著書をさっそく手に入れると、上智大学の教授になる前の外交官時代に必要に迫られ、独学でロシア語、中国語、日本語の三つの言語を立て続けに短期間で物したとある。日本人のための英語習得法が述べられているこの本の序にあった次の文章を引用する。

 毎日、日本中の学校の教室である決まった方式の英語教育を受けさせられていますが、英語をきちんと話せるようにならないこと請け合いなのです。いや、もっと悪いことに、生徒たちが将来本式に英語を習得する能力までも永久に損なわれてしまうのです。

わずか半年という短期間に独学で習得した高い質の日本語を聞いた直後であったことと、この本との相乗効果で言太は「自分の不勉強より受けた英語教育が悪かった」というメッセージを新鮮な驚きを伴って、心の奥に取り込んだ。無意識のうちに、いつの日か成熟するのを待つことになる。学校で十年かけても使い物にならなかった英語と、半年でしかも独力で自由闊達に話せるまでに上達したクラーク氏の日本語、の二つの現象に潜む秘密を明かす長い旅の始まりだったことに気づくのは、だいぶ先になる。
第二次大戦後の米ソの冷戦時代を象徴する出来事に、両国の威信をかけた人工衛星の打ち上げ競争があった。言太は子どものとき、月を見上げながらうさぎがもちをついているのだという話を聞いた。地球の引力に逆らって地球から飛び立つことなど夢物語だった。ソ連が先に人の乗った人工衛星を飛ばし、米国の威信は大きく傷ついた。衛星名を採りスプートニク・ショックと呼ばれたが、米国はすぐさま自国の青少年の理科・数学の教育から見直し、算数・数学の教科書を全て書き直した。新興国アメリカの国民性と、受けた衝撃の大きさを表している。新米の数学教師だった言太は、スプートニク・ショック前後の両方の米国の教科書を取り寄せ読み比べた。同時に世界中の主な国の教科書にも目を通した。そして数学は世界中どこも同じだろうという予想の間違いに気づいた。
 時を同じくして、言太先生の中三の生徒が家族と共に米国に移住した。ほどなくして日米の制度のズレで、高校生として米国全土の高校生が対象の数学オリンピックに参加し、町で一番になったのを大きく取り上げた新聞記事を送ってきた。この手の話は他にも沢山ある。日本の数学教育のレベルの高さを裏付けるのは、世界の青少年を対象にした、初めての算数・数学の学力調査で日本がダントツ一位だった。カリキュラム改変で後年順位を下げるまで続いた。
 そう時を待たず、独創性に高い評価基準を置く科学系のノーベル賞に、日本人が次々と輩出され出した。日本人科学者たちは世界に向け発信する論文を英語で書いてはいるが、彼らの頭の中で発想し、模索・考察し理論化するまでの道のりは、もっぱら母語の日本語を用いている。世界の最先端科学が日本語を通して創造されている。何語で考えても思考結果は同じと考えるのは誤解だ。思考と言語は密接につながっており、日本語で考えたからこそ、そこまでの考察に及んだという分析がある。言語の質、成熟度、将来性は、それを話し使ってきた人々が代々に渡って育ててきた総体だが、逆に言語の力が、その言語を使う人々の能力や才能を導き引き出している。人と言葉は相互に依存し影響し合っている、切っても切れない運命共同体なのだ。
 日本人による沢山の日本語論を読んできた言太だが、不思議に胸に一番刺さったのは多言語に通じた外国人二人の著書だ。アメリカ人の作家ロジャー・パルパースはこよなく日本と日本語を愛し、日本に住み続け、彼の敬愛する宮沢賢治と日本語の良さを分かり易く読者に伝え、日本語の力に開眼させた。『驚くべき日本語』集英社の中で、会話に限れば日本語は英語よりはるかに易しい言語、であり、日本語が世界語になるには日本人が日本語の奥深さを知ることが大切、と日本人の気づかない核心をついている。前述のクラーク氏同様、日本人に捉えられなかった日本語の魅力と課題を明示している名著だ。

 こんにちは日本語 教本創り

地上最初の人は、言葉と共に誕生した。言葉を発明したグループがチンパンジーと別れ新しい種に進化出来た、と言い換えてもいい。それ以後進化は、言葉が促す脳の発達によって今日の人の脳にまで至った。進化の研究がこの六百万年間の出来事をより鮮明にしている。人類の中で話し言葉を特別発達させた新人が我々の直接の祖先となり、文字を発明して内省思考の能力を得た。今日の六千語とも数えられる多種多様な言語の在り様は、未来の生き残りを模索する進化の大切な試みと言太の目に映っている。言葉の一種であり、言太が生業として長年関わった数学や科学は、宇宙を舞台に広がる進化の長期の視点からは、まだ地上に現れたばかりで、言葉や脳も未熟な発達段階にある。
 それでも進化はひとときもその歩みを止めず、人の脳を借りて優れた言葉造りに望みをかけて進行している。人の進化とは言葉の進化。言葉と人の関係の本質を悟るなら、武力で世界が支配されてきた今日までの歴史・政治の有り様は、進化が本来目指す未来スケッチとは異なるのではないか。未来を生き創る子どもたちをよく観察すると、いち早く彼らの本能が圧倒的に支持する、日本語から発信される様々な価値観を表現する日本の文芸、文化、マンガ、アニメに、大切な宝があることに気づく。ロジャー氏が示した日本人の自覚の大切さ、のメッセージが蘇ってくる。
日本語を母語とする者には予期しなかった時代が敗戦国日本に現れつつある。日本マンガ、アニメ、ゲーム、科学技術などを通して日本文化へのかつてない関心と親しみが世界に生まれようとしているのではないか。
数学教師を辞め日本語教師へ転身した言太の個人的背景に付き合って頂く。
 言太が男子進学校の数学教師を辞めた後、自費出版した本を栄光学園の校長が推薦し、神戸新聞と朝日新聞が大きく取り上げて千冊売れた。次にシニアボランティアとして派遣された小国ジャマイカの教育省では、新しい数学教材を作成し、提唱したカリキュラムが全国で採用された。混迷していた小学校教育を変革し、教育現場に希望が生まれた。これら二つの経験は言太に次に進む勇気を与えた。彼の作った教材を用いた教育を継続するシニア隊員が以後継続して派遣されるようになり今日まで続いている。
 帰国して二年後に言太の妻が事故で亡くなった。亡くなる当日まで彼女は自が立ち上げた小学校の市民図書室にボランティアで出かけ、夫とは毎夜朗読を楽しんでいた。茫然自失の言太は、二年前に亡くなった妻のクリスマスの飾りつけが手つかずのまま残る暗いリビングのソファーで、今夜も涙を流し続けている自分の異常にはたと気づき、我に返った。
自分の危険に気づいた言太は、とりあえずベトナムのホーチミン市のヒューテック大学内で新大学設立の準備で住み込んでいた学友の平目(ひらめ)を訪ねた。ベトナムで二番目に大きな日本語学校の青年重役タンさんに紹介されたとき、日本語を教えてみたいと伝えると、彼の経営する日本語学校で教えないかと誘われた。
 海に突き出た観光地ブンタオは涼しい風が通る穏やかな、大都市ホーチミン市から高速船で一時間半の保養地である。ここに住む外国人が日曜ごとに集う山歩きを楽しむ会によく顔を出した。日本語学校ではたった一人の日本人の言太を食事に誘う同僚のベトナム人日本語教師や、彼を慕ってくる生徒たちと付き合い、ホテルと学校の間のバイクと車の喧噪で自分の声さえ聞こえない道を、アンパンマンのマーチを大声で歌いながら三か月間通ううちに、日本に帰ったら日本語教師を始める、と決めていた。自分は教師に向いていないと思い辞めた数学教師だったが、日本語教育なら頭の中にアイデアがたまっていて次の人生は実に面白くなるハズと思った。すぐにでも理想の日本語教育を試したくなった。
 言太の話を聞いた平目は、まずは日本語教師の資格を取るように勧めた。今の教育に説得できるダメ出しをするには、現状の内容理解が不足している。ここはあわてずに調べ、時間をかけて将来に備える必要があると認め、帰国するとすぐに神戸三宮にある日本語教師養成の専門学校に入学した。六十九歳は同期の最高齢だったが、最短で卒業できる一日六時間授業を皆勤で半年受けた。久しぶりに受ける授業はどれも突っ込みたくなる内容満載で面白かった。この時の教室のなかまが後の活動に欠かせないメンバーになる。教室の中でひときわ熱心が際立つ、地声の太く大きな弁慶(べんけい)さんは、言太と年齢が近く、最近妻を亡くしている。弁慶さんと平目を誘い「こんにちは日本語株式会社」を始めた。収入は全く見込めないので、給与の要らない取締役三人だけの超零細企業である。

日本語学習法は、成功した個人から学ぼう

 世界に先駆けた長編小説「源氏物語」を生むほどの高品質な言語文化を育てた民族だが、第二次大戦後の英語に特化した外国語教育では孤立した島国の環境が今度は災いしたのだろう。言太が日本語教師になって再認識したのは、外国人用の日本語教育法の、日本人対象の英語教育でみせたと同じ稚拙さだ。これから必要なのは、現行の日本語教育法ではなく、半年で独力で日本語を習得した個人の成功体験であろう。文法中心の授業から学習を積み重ね、長年の努力が実った英雄伝ではない。言太は、わずか半年で日本語を物した人たちを調べるうちに、彼らに共通する驚くべき特徴に気づいた。彼らは大学の日本学科や日本語学校ではなく、自分独自の学習方法を見つけて独学で成し遂げている。そしておかしなことに文法を取り上げて学んでいない。
ここで文法について多くを語る余裕はない。何しろ人の言語とは文法を持つ、と言い換えられるほど、言語と文法は切り離せない。ここでは、我々がこれまで文法と呼んできたものの正体をハッキリさせる必要がある。言語に観られる規則性を学者が発見し整理したものを文法と呼んでいるが、この文法には誤りや未熟さが多い。
その一方で、人の脳には長い進化をかけて遺伝的に備えた生成文法という完全な文法機能がある。どの赤子も生まれながらに持つ生得の生成文法を、周りで話されている言語に適用することが本能でできる。誰が自分の母語を話すときにいちいち文法をチェックするだろうか。ところが従来の教育機関では、英語や日本語学習で、まず不完全な文法を覚えさせてきた。母語では生成文法という人が生まれながら備えている完全な文法を使えるのに、外国語の学習では、人が作った不完全な文法経由という不自然な翻訳作業を強いて、人の脳にムダな負荷をかけ続けている。
個人の日本語学習の貴重な成功体験を、既存の文法中心の日本語教育の中でどう生かすか。言太はそれを考えぬいてきた。よほどうまくやっても、拒絶されるか、現場に混乱を起こすだろう。言太の主張は現在の日本語教育の常識には反しているが、半年で日本語を物にした人たちという確かな証拠事例がある。
言太が「こんにちは日本語(株)」で日本語教育に携わるうちに、別の大きな二つの夢がより鮮明になってきた。高齢化が進む日本社会での高齢者の生きがい創設、と少子化問題解決への寄与の二つ。どういうことか。多くのシニア世代には体力は落ちても会話する能力や教養が十二に備わっている。もし彼らが日本語学習者の話し相手になれたら、日本人との生きた会話の機会が無い海外の学習者にとって、これ以上ない有効な助けになるだろう。志のある若者を支援することが、どれほど大きな喜びをシニアに与え、生きる張り合いと喜びをもたらすかは、経験から請け合いなのだ。そして今日のインターネットの出現と発達がこれを可能にした。
日本語の魅力が世界に広がり貴重な価値観が受け入れられ、有能な若者たちがさらに日本を目指し集まることになるだろう。これは日本政府の少子化や老齢化対策にも寄与するだろう。一石三鳥を目指す小さな会社の試みは、大風呂敷な破天荒な夢に過ぎないとたとえ捉えられようが、どっこい日本文化の可能性を実現化する、国家プロジェクトに据える価値がある。提言できる知恵と経験を蓄える努力が、会社存続のエネルギーになる、と言太は夢を追うことを会社の使命と心得ている。夢があればいつの日か正夢となるかも知れない。
まず日本語教育に乗り出すにあたっての目標を見える化し「日本語を半年で習得する日本語教育法の作成と実践」のタイトルを付けた。そして改新の日本語教育法「こんにちは日本語」を作成し教育実践を通して成長を試みることにした。
新しい事業をこれから始める齢としては遅いのは否めないが、目標が出来れば、あとは前へ進むだけだ。言太はアンパンマンのマーチを口ずさみながら、弁慶と平目と一緒に歩きだした。

 革新の日本語教育法「こんにちは日本語」教本創り

 ブンタオのベトナム人の友達から、日本語教師トンさんを紹介された。トンさんは日本企業で社長秘書を務めた後に日本人と結婚、母校ラクホン大のあるビエンホアで最近日本語学校を開いたという。言太はトンさんに「半年でN1を取る」(N1:日本語能力検定試験の最高レベル。英検一級に相当)という勇ましいタイトルを付けた四か月間の集中授業の開講を提案した。トンさんの学校で教えるベトナム人の日本語教師三人を学生とする特別授業は、オンラインでの一月間の準備を経て始まった。三か月間、朝の8時から夕方の5時まで昼休みとトイレ休憩をのぞいた一日七時間、土曜は午前中のみで週6日間。直前の一月間は、週一回学生と一対一の個別授業、この間に学生の様子を伺い、授業に備えた。この準備のオンライン授業で言太は手ごたえを覚えた。学習内容は学生各自の自由に任せ、授業ではその勉強の報告を聞くことにした。すると学生は熱心に自分が決めた課題に向かった。
 この前のブンタオでの体験からベトナム人は大方読書をしないと分かったので、今度は授業中に読書の時間をしっかり取り「授業が終わる三か月後には読書が楽しいことに気づく」をひとつの目標にした。しかし後から観るとこの試みはうまくいったとは言い難い。どうもベトナム人が読書嫌いになったには、根深い理由が有ってベトナム人の身に着いたものらしい。
ビエンホアでの集中授業の反省はいくつもある。まずは事前の不可抗力的準備不足。ブンタオのような歩ける場所がなく運動不足からひどい便秘になった。移動は全て、他人の運転するバイクの後部座席に乗せてもらっていたが、慣れない車道はトラックとバスが猛スピードでクラクションをけたたましく鳴らしながらバイクスレスレを走り抜けていく。バイクに乗ると恐怖で目がくらんだ。授業直前の道路わきの屋台で流し込む朝食。生活リズムが合わず医者通いが続いた。トンさんとの情報交換不足。現地を訪れて初めて知ったことだが、学生は7時間の日本語授業を受けた直後に晩飯をかきこんですぐ、今度は教師として教室に出かけた。授業が八時すぎまで組まれていたから。学生には当然復習する時間が与えられているものと独り勝手に考えていた言太は、授業初日にガツンとひどく頭を叩かれたようなショックを受けた。校長のトンさんの発想では、授業を受けるという特別の特典が与えられたのだからそのあと授業をするのは当然、となる。
この出来事は、一見二人の間の小さな思い違いに過ぎなく見えるが、後に言太がベトナム人の国民性を理解するきっかけになった。学校が終業になるとベトナムの子どもたちはみな塾にいく。学校の先生が引き続き塾で教え、これが教師の副収入になる社会構造である。日本以上に教育熱心と初めは捉えていたが、同じことを学校と塾で繰り返すのは彼から見れば時間の無駄で、国家的損失に映る。まず受け身な体質を作っている点がいけない。ベトナムや韓国からは社会構造的にノーベル賞が出ないという言太の予測は、ここまで過剰な学校教育環境偏重ならこどもの独創性を伸ばすに欠かせない自由な時間を奪い、自主の芽を摘んでいる、という観察から来ている。
「こんにちは日本語」教育の二回目は、試行を飛ばし一気に大きな事業になろうとしていた。計画し実行に向かって準備は始めたが、日の目を見ないままに頓挫した。ベトナム中部ダナンの某私立大学で、日本の工学教育と日本語教育の二つを二本柱にした学部を新設する計画が立てられた。工学は金沢工業大学が担当し、日本語教育は「こんにちは日本語(株)」が担当する、ということで、三者が一堂に集まって仮契約を結んだ。ダナンの大講堂での調印式は派手に始まったが、本契約に進む条件としていたベトナム人日本語教師の募集と彼らへの「こんにちは日本語」教育法を教育訓練する機会は、来なかった。事情があるのだろうから、せめて一言でも挨拶なり、説明が聞きたかったが、ベトナムでは突然説明なしに繋がらなくなり、それを合図に関係を切る。ということが個人の関係でよく起こる。大学や会社という社会的立場のある者同士でも同じ倫理で回っている別の社会に気がついた。
ビジネス社会を上手く回す鍵、コミュニケーションを促すための造語に「ほうれんそう」がある。報連相とは報告、連絡、相談の略だが、報連相欠如に苦しめられて停滞している間に、弁慶さんがインターネットで自分の興味の赴くままベトナム語を検索し、漢越語(かんえつご)の世界に魅せられて遊ぶうちに、研究に発展し、論文をいくつか物した。弁慶さんのベトナム語獲得という成果を、言太は、良い悪いは決めかねる、と教える「塞翁が馬」の物語のエピソードとして読んだ。二回目の試みは表向きの失敗の一方で、弁慶のベトナム語獲得を生んだのだ。
 三回目の試みはコロナ騒動がようやく下火に向かう、対面での授業ができない時期が終わろうとしていた時になる。言太が「こんにちは日本語」教育法による授業開催の提供を、トンさんを通してラクホン大学に申し出て実現した。週一回一時間半の授業が十回、その前に参加者の自己紹介、オリエンテーション、授業の予行演習、の三回を加えた計十三回。授業終了後に優秀な学生二人を五日間日本に招待するという特大サービスを付けた。参加費無料の特別授業。日本語学科の学生を対象とする積りだったが、ラクホン大からの、ロボット世界選手権で優勝しているわが校の理系学生を入れて欲しい、という要望を受け入れ、学生採用作業はトンさんにお願いした。いよいよこれが三度目の試み、日本人五人態勢で臨んだ。
 授業は90分。半分の45分は、二人一部屋の小部屋に分かれ日本語での自由会話、もう半分は、言太が毎週配布する授業用プリントに沿っての一斉授業である。変に聞こえるかもしれないが、この一斉授業では何も教えない。学生各自の自宅学習頼みである。言太の仕事は一週間前の授業で出した課題を学生がやってきているかを、全員の前で一緒にチェックすることに尽きる。何をどうやるかが学生に分かるように課題を明示さえ出来れば、そして課題の質や量が良ければ、皆の前でいいところを見せたい、不勉強を悟られて恥をかきたくない、日本招待に選ばれたい学生たちは、学習意欲を燃やし、自分自身の確かな成長の自覚がさらなる学習意欲を生むだろう。
 資料の提供、学生の学習報告、言太と学生との交換をスムーズに進めるためのインターネット上のシステム作り、アドバイスは全て名さんに相談し依頼できた。授業での日本語会話には五人の日本人教師とベトナム人のトンさんで臨んだ。

2023年12月初めからの三か月間のズーム授業終了後、三人の日本人教師がラクホン大学を訪問し、スピーチコンテストに参加した。学生のビザ手続きの遅れで日本訪問は当初の予定より二十日ほど遅れたが、招待学生の人数を一人増やし、三人で実施した。
その後、言太はラクホン大学とのオンライン会合で、次回の「こんにちは日本語」の授業は今年の11月から始める旨提案し、同意を得て実施が決まった。